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本能寺と織田信長と本能寺の変

 2017/02/17 中京区 京都観光 戦国 歴史 神社・仏閣 雑学
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本能寺といえば織田信長、織田信長と言えば本能寺の変。
2017年1月に公開された映画「本能寺ホテル」をはじめ、映画、小説、ドラマ、浄瑠璃、歌舞伎、ミュージカル、漫画、ゲーム、音楽など様々なジャンルで作品の題材とされてきたことや歴史の教科書に必ず出てくることからも、時代を問わず誰もが知っている事件と言えるでしょう。
その本能寺の変がまさに起こったのが京都です。そして、その本能寺は今も立派にあります。
京都に来れば歴史の教科書でなく生の本能寺が見れますし、織田信長が所持していた茶器なども観ることができます。

そんな本能寺と織田信長と本能寺の変のついて簡単にまとめました。

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時代の中心にあった本能寺

本能寺の歴史は、 焼失 と 再建 を抜きに語れません。
その時代を象徴する争乱とともに、消えては再び歴史の舞台となる。そんな本能寺の再建の歴史をご紹介します。

【第一の建立】
1415年、志が遂げらずに綱紀の粛清として努めていた妙本寺(現在の妙顕寺)を去った開祖日隆聖人が、油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を開きます。
1418年、月明上人の命で妙本寺の教徒によって破却されます。

【第二の建立】
1429年、町衆小袖屋宗句の援助で、現在の西陣辺りの内野に本応寺を再建します。

【第3の建立】
1433年、如意王丸を願主として現在の神泉苑の南にあたる六角大宮に本能寺を建立します。
1536年、天文法華の乱で比叡山延暦寺の山法師勢から焼き討ちに遭い焼失します。

【第4の建立】
1542年、日承王聖人(代12代貫首)が、四条西洞院元本能寺町(堀川高校の東)に再建します。
1582年、本能寺の変にて焼失します。

【第5の建立】
1582年、日衍聖人(代14代貫首)によって四条西洞院に再建後、豊臣秀吉の命で現在の地に移転します。
1788年、天明の大火により焼失します。

【第6の建立】
1840年、日恩聖人(代77代貫首)の代に再建を果たします。
1864年、維新騒乱の際、蛤御門の変で薩長の砲撃の的となり焼失します。

【第7の建立】
1928年、現在の本堂が建立されます。

「能」は「能」でない

1433年から現在まで「本能寺」の寺名を使用していますが、本能寺は「能」の字を使いません。
これは、本能寺が5度も火災に遭遇しているので「能」の字にある「ヒ」=「火」と嫌い、替えています。

敵は本能寺にあり

本能寺の変とは、1582年6月2日未明に、家臣であった明智光秀(あけちみつひで)が備中の毛利勢を攻めるために出陣したと見せかけて京都の本能寺に宿泊していた主君の織田信長を襲撃した事件です。

織田信長は寝込みを襲われ、周囲を包囲されたことを悟ると、寺に火を放ち自害しました。
また、嫡男の忠信は宿泊していた妙覚寺から二条城に退いて戦いますが、自害しています。

このことから、「本当の目的・目標はほかにある」という慣用句が生まれました。

本能寺の変前日に起きた「3つ」の「3」

京都の争乱の中心にあった本䏻寺の歴史の中でも一番の大事件と言えるのが「本能寺の変」です。
実は、本能寺の変の前日に「3」にまつわるあることが「3つ」も起きていたことを知っていますか?

1つ目、
本能寺の変前日、織田信長は近衛前久をはじめとした公家、博多の豪商島井宗室や町衆40名を茶会に招待して、自分が所蔵していた「九十九髪茄子茶入」など38の茶器を披露しました。
この時の織田信長は、「茶入れの天下三名品のうちの二つを所持していて、もう一つの天下三名品「楢柴」を所持していたのが博多の豪商島井宗室です。織田信長はこの「楢柴」を手に入れて、茶入の世界でも天下を狙っていたのかもしれません。

その後、晩餐会を催し午後10時ころから本因坊日海上人(寂光寺)と鹿塩利賢(本能寺)の御前試合を見物しています。この勝負は碁盤の上に「却」が3か所できたため、無勝負となったそうです。これで2つ目。

最後の3つめは、以後の御前試合からほどなくした頃、本能寺にあった天災を予知する能力を持った霊獣(神)三足の蛙の香炉が、織田信長に危険を知らせるかのように突然鳴き出したと言われています。鳴き続けた三足の蛙は、蜀江の錦(蜀の国製の赤地錦)で覆われるまで鳴き続けたそうです。

信長はなぜ本能寺にいたのか?

織田信長が本能寺を上洛時の宿としていたのには3つの理由があるといわれています。

1、日承上人が天皇の親戚だったから

2、当時本能寺は高い塀と深い堀で囲われた城郭構えになっていて安全だったから

3、本能寺の信者が種子島に多くいて鉄砲や火薬を調達していたから

いかにも信長らしい理由ですね。

本能寺について詳しく知りたい方はこちらの記事もどうぞご覧ください。
☞【織田信長に逢える】法華宗大本山 本能寺を知る11のポイント

信長が自刃したのはどこだ!

織田信長は、現在ある本能寺で自刃していません。
本能寺の変で焼失した本能寺は再建され、豊臣秀吉の命で現在の寺町御池に移っています。
となると、本能寺の変当時の本能寺はいったいどこ?

これまで本能寺の跡地は、元本能寺町や本能寺町の地名が残る旧京都市立本能寺小学校付近と推定されていました。ところが、1992年に行われた本能寺小学校跡地の発掘調査で当時の遺構が発見されたことで、現在では、南が蛸薬師通、北が三条通、東が西洞院通、西が油小路に囲まれた東西約100メートル、南北約200メートルの規模だったと考えられています。

旧本能寺小学校の跡地には現在、京都市立堀川高等学校本能学舎と特別養護老人ホームの施設となっています。特別養護老人ホームの北東角と油小路通沿いの2か所に石碑が建っています。
興味深いのは、5度も火災に遭遇した本能寺の跡地に建つ石碑が地元消防分団の前であること。
因縁を感じますね。

本能寺の変当時の本能寺(跡地)について知りたい方はこちらの記事もどうぞご覧ください。
☞織田信長最後の地 本能寺跡地

信長の亡骸が見つからない!

戦国時代の武将の墓が複数あるのは珍しいことではありませんが、織田信長の墓も全国にあります。

・本能寺 京都市中京区 信長所蔵の太刀
・阿弥陀寺 京都市上京区 清玉上人が集めたとされる遺骨
・大徳寺総県院 京都市北区 秀吉が建立、帰蝶(濃姫)やお鍋の方の墓もある
・大雲院 京都市東山区 嫡男信忠の菩提寺、信長と信忠の合祀の墓石
・妙心寺玉鳳院 京都市右京区 信長の乳母養徳院の菩提寺、滝川一益の墓もある
・今宮神社 京都市北区
・建仁寺本坊 京都市東山区
・建勲神社 京都市北区 かつて秀吉が計画した信長の菩提寺「天正寺」の跡地にある
・聖隣寺 京都府亀岡市 丹波亀山城主で信長の子息秀勝が建立

京都府だけでもこれだけの場所にお墓があります。
これは「亡骸が見つからなかった」ということだけでなく、織田信長の影響力の強さを物語っているのかもしれません。

まとめ

前述のとおり、諸説ありますが織田信長の亡骸は見つかっていません。
見つからないからこそ、後世の私たちは想像を膨らませていろんな角度から見ることができ、様々な作品として伝えることができているのではないでしょうか。

織田信長が生きていたらなんて時代は変えられません。しかし、その時代にタイムスリップできるのが京都です。
京都には先人たちが守り続けてきた歴史が今も生きています。
一本路地に入ればガイドブックに載らない様々な時代の名残が今も残っています。
そんな京都を探しにぜひお越しください。

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